ニート考(2)

「非生産性」

どんな理由であれ、またどんな基準によるものであれ、人間を分類するのは趣味ではない。というか嫌いだ。分類のあるところには必ず侮蔑や差別や敵意や排除や階級が付きものだから。「文明人」と「野蛮人」、「敵」と「味方」、「男」と「女」、「ヘテロセクシュアル」と「ホモセクシュアル」、「正規社員」と「非正規社員」、「同国人」と「外国人」、「高卒」と「大卒」、「地方出身者」と「東京出身者」、「モテ」と「非モテ」、「高所得者」と「低所得者」、「黒人」と「白人」、「高身長」と「低身長」、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」、「若者」と「老人」、「二十代」と「三十代」、「独身」と「既婚」、「子なし」と「子もち」、「家が金持ち」と「家が貧乏」、「健常者」と「障害者」・・・列挙してるだけでウンザリしてきた。「枚挙にいとまなし」とはまさにこのこと。一日やってても終わらないよこれ。この世に戦争や軋轢が無くならない理由が分かり過ぎて辛い。この世のなかには「生産的人間」と「非生産的人間」という分類もある。ごく大づかみに言うなら、前者は何らかの労働によって「財」を生み出している人間のことで、後者はそれを生み出していない人間のこと。経済学における「財」とは、人間の物質的あるいは精神的欲望を満たすもののこと。光や雨や空気のようにそれを得るのに対価を必要としないものを「自由財(free goods)」と言い、対価を必要とするものを「経済財(economic goods)」と言う。この「財」の定義をよく踏まえて考えるなら、「非生産的人間は何も財を生み出してはいない」とは必ずしも言えないことが次第に明らかになってくる。たとえば「非生産的人間」の代表とも言い得る幼児などは、<ただ生きているだけ>で、その母親や父親に「生きる気力」を与え得る。母親や父親にしてみればこれは他のいかなる「経済財」によっても得られないものだろう。つまりその存在そのものが「財」なのである。また、労働市場とは無縁のところにいるニートやスネップも、その友人や家族にとって<欠かせない存在>であるのなら、じゅうぶんに「自由財」的な役割を果たしていると言える。大急ぎで断っておくが、私は、「経済財」を生み出していない人たちはせめて「自由財」的役割でも果たすべきだ、などという暴論を吐きたいのない。「友人がひとりもいない引きこもり」であってもその存在は「否定」されてはならない。

「ニート問題」なるものを論じたがる人たちが、「ニートをいかに働かせるか」とかいった「お花畑的かつ当事者不在的」な議論に終始し、「ニートであっても生きられる社会をいかに作るか」といった議論になかなか向かおうとしないのは、なぜだろうか。おそらく「ニートもその気になれば働ける」と素朴に信じているからだろう(ニートの友人がいればそんな幻想は抱かないのだが)。「ふつうに働けること」が才能なのだということを彼彼女らは知らない(私は聖人だからそのことをこれまで色んな人に優しく教えてきた)。たとえば大谷翔平が「二刀流なんて簡単じゃん、みんなもその気になれば出来るぜ」とか言い出したら、きっと誰もが「ふざけるなバカ」と思うはず。ニートや引きこもりも、「簡単なパートくらいからはじめてみたら?」とか心無い人たちに言われるたび、「ふざけるなバカ」と憤っているのだ。才能に恵まれてる奴らってマジでそのことに無自覚だからね。
もちろんニートも十人十色だからやがて働くようになるニートもいるでしょうよ。でも私は、「働くこと(経済的自立)」を最大目標としているようなニート支援にはきほん懐疑的なんだ。そうした支援方針の根には、「ニートや引きこもりであることは本人のためにも社会のためにも良くない」といった傲慢な価値判断がある。だからどうしてもその介入の仕方は「矯正的・更生的」なものとならざるを得ない。
さて、「ニートでも食っていける社会を作る」にはどうすればいいのか。

ここで、150万人近くいるとされるニート引きこもり(以下ニート)が「結束」すればどんな「政治行動」が可能か、ということをあえて考えてみたい。たとえば「ニートの組織票」などというものはあり得るのか。ニートは「政治」に何を望んでいるのか。支持政党はあるのか。デモとかに参加するのか。そもそも投票所に行くのか。
18歳以上のニートはみな選挙権を持っている。25歳以上のニートであれば衆議院議員選挙や都道府県議会選挙に立候補できるし、30歳の以上のニートなら基本すべての選挙に立候補できる。現役ニートが選挙に立候補するという出来事はもう過去に何度かあった。残念ながら(というか当然ながら)すべて落選という結果に終わっている。なかでも、「ニート25才」というポスターを掲げて2015年の千葉市議会選挙に立候補した上野竜太郎氏はわりと有名。彼は1399票を獲得し供託金の没収を免れた。よかったね。
職歴ゼロの泡沫候補が資金にも人脈にも恵まれた海千山千のオヤジたちに勝つのはほぼ不可能だ(参院比例とかなら不可能じゃないかも)。その地域のすべてのニートがニート候補者に清き一票投じても難しいだろう。選挙にさして関心のない私でもそのくらいのことは分かる。だから私は「ニートを議会に送り込む」という作戦ははじめから諦めている。松岡修造には悪いけど。

私は「ニートのニートによるニートのための政治」なんて大それたものは求めていない。「そんなことメンドクセー」と思うのがニートをニートたらしめる基本性格だと理解しているからである。私はただ「働かずに食っていきたい」だけである。だから、「ニートでも食っていける社会」をいかに作っていくか、ということにいちばん関心がある。「ニートでも食っていける社会」はニートでない人々にとっても生きやすい社会だろうから、「そんな社会は嫌だ」と拒絶する人はおそらくほとんどいないのではないか。かりに私がニートでなくても、「いいねそのビジョン」ってなるだろう。

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