ニート的リアリズム
Ⅰ
まずは、「無業者」として<どうやって>生きていくか、ということが問題になる。非ニートの人々が思考停止的に言い放つ「正論」もしくは「理想論」とは違った観点から、この問題に向き合ってみたい。人は、というかほとんどの生き物は何かを食わねば生きられない(このことの残酷さを「正しく」理解している人はあまり多くない)。(少なくとも私は)べつに生きたくもないのだけど、食わないでいることには著しい苦痛が伴うので、どうしても生きざるを得ない。でもニートのなかには、「働くくらいなら息絶えた方がマシ」といった人が少なくない。非ニートの人たちからするとこのへんの「依怙地」がどうしても理解できない。そんな人たちから見ればニートは基本的に「穀潰し」「お荷物」「不良債権」でしかないので、彼彼女らはなにがなんでもニートを働かせようとする。働こうという気さえ起こさないニートにはあらゆる罵言を浴びせかける。いっぽう世の中にはニートにそこそこ「同情的」な人たちもいる。ただ彼彼女らも「ニートの就労」を最終的な目標としている(らしい)点で、「ニートの敵」とならざるを得ない(「物分かりの良さ」はひとつの戦略でしかない)。
私見によれば、(労働者であり納税者といった)「公認のマトモな市民像」からいちど距離を置かない限り、「生産性」の価値基準を相対化することは出来ない。現在の日本に生きる人々は、多かれ少なかれ、そうした価値基準をかなり深く内面化させている。敢えて言うなら、そんな価値基準を内面化させている人々のなかからしか、引き出し屋や植松聖といった<過激派>は出てこないのである。
一口にニートといっても、とうぜん一人一人の抱える事情は違う。だから安易な「一般化」は最大限回避すべきだろう。「本当は働きたいけど怖くて働けない」というニートもいれば、「本当は働けるけどただ単にダルいから働かない」というニートもいる。親が財産家のニートもいれば、親の国民年金しか当てにできないというニートもいる。右翼的思想のニートもいれば、左翼的思想のニートもいる。文学研究に余念のないニートもいれば、登山やスカイダイビングを趣味としているアウトドア派のニートもいる。リア充のニートもいれば非リア充のニートもいる。「絵に描いた様なニートなど実はほとんどいない」と現在の私は思っているが、ニートについての量的・質的研究をしたわけでもないので、断言するつもりはない。
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